風の軌跡(96)

一生をかけて本人識別

地下鉄の出口から地上に1歩踏み出したとたんに、全身を巻き上げるような風が襲ってきた。一瞬よろめきながら、それでも強い風の中に柔らかい春の気配があって心が和んで来る。新しい春がやってくる。
「日経のセミナーで当社の企画はバイオメトリクス市場動向」というと、「今ごろ・・・?」と電話の相手は叫んだ。「うそー、これから面白くなるんですよ。日本企業が勝ち残れるかどうか・・・」こちらも負けないようについつい叫んでしまう。「空港や重要施設の限られた場所だけでなくパスポートやパソコン、マンションなどに無数に導入されたり、鍵や印鑑代わりにもなるのだから・・」。

本人であることを証明するのはなかなか難しい。昔の狭い地域社会ではほとんどが顔パスで、「こんにちは、私でーす」とニッコリ笑えばすんだことが、今は身分証明書、運転免許証は?等と求められる。近い将来は指紋取るから手を出して・・・とか、目をもっと開けて瞬きしないで・・・とか言われるようになるのかと想像するだけで気が重くなる。
「どうも機械の調子がうまく行かなくて識別出来ない。あんた、ほんとに本人?」等と制服を着た厳めしい門番に疑い深そうに聞かれたらどうするか? 私など気が弱くなって「そう問い詰められると自信がない。多分本人と思うのですけれど・・・」等と答えそうな気がしてくる。
将来、クローン人間などが現れ、人間の脳の記憶部分の研究が進み、洗脳手法が発達すれば本人と偽物の差がなくなるのだろうか。

「監視カメラをつけて欲しいのは電車内」30歳の男の人は酔いが覚めたように真顔で言った。 朝夕のラッシュで一番恐いのが痴漢に間違えられること。問答無用で警察に引き渡され社会的に抹殺される。ひたすら女性と離れ、それが不可能で押しくらまんじゅうになると両手を挙げて「何もしてませんよ」と万歳状態で自己防衛するという。「ぜひ真上から鮮明に画像を映せて録画、識別できるものを設置して欲しいですね。間違えられた時に証明出来るように」
「痴漢は確かに許せないが、ラッシュの電車内、ほとんどの男性が自己防衛のために両手を挙げている光景を想像すると異常ね。男性が降伏のポーズしているのだから」
本人識別と同じく行為の正当性を証明するのもセキュリティの重要な分野。

「若い頃には頭が切れる人だっだが・・・」物忘れが始まったご主人の変容をこぼす。究極の本人識別は時間をかけて行為を通して識別出来る。若い時の才気から歳老いてからの物忘れまでの変化するのが本人の真の姿。死ぬまで見守ってあげたらいかが。一人の人間を簡単に判断、識別できると考えるのは傲慢だと思うのですけど。

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